2017年9月19日火曜日

訃報(西日本新聞台北支局長の中川博之さん)

特に親しかったわけではないし、長い付き合いだったわけでもないのに、突然の訃報を目にした後、体のどこかで、ざわつきがしばらく止まらなかった。

17日の夜、ぼんやりとパソコンでウェブのニュースを眺めていた私は、目に飛び込んできた1行を見て思わず声を上げた。西日本新聞台北支局長の中川博之さんが、台北市内でタクシーにはねられて亡くなったというのだ。まだ48歳というから、新聞記者としては働き盛りである。

何年か前、当館で特別展「世界記憶遺産 山本作兵衛の世界」を開催する前年のことだったと思う。そのころ台北支局長から本社の国際部に帰任されたSさんに伴われて、中川さんの訪問を受けた。それが初対面である。

来意は来られる前から分かっていた。そのころ筑豊総局にいた中川さんは、田川市の世界記憶遺産を所管する機構改革に批判的だった。その内容は、私も西日本新聞筑豊版の紙面で知っていた。記憶遺産(作兵衛さんの炭坑記録画)の保存・活用に関する委員会には、私は最初から委員長として関わっている。

私の意見を聞きたいという来意は、穏やかな表現をすればということであって、ざっくばらんに言えば、お前が居ながら何やってるんだという事だっただろう。でも私にすれば、もとより人事に口を出せる立場ではないし、機構のあり方についても、必ずしもSさんや中川さんと同意見ではない。まあそんなやり取りをしたわけだが、別に気色ばんだ話になったわけではなかった。

後から知った話だが、筑豊総局時代の中川さんは、行政や議員さんたちには、けっこう煙たがられる存在だったらしい。でもそれが批判のための批判ではないということは、批判される側にも伝わっていたのではないか。「また叱られに来ました」と言いながら、議員控え室に入っていけるような人である。煙たがられながらも受け入れられるのは、批判の根底に地域に対する愛があることが伝わっていたからだと思う。

中川さんと最後にお会いしたのは、昨年の1010日、台湾の新平溪炭鉱博物館で行われた、同館と田川市石炭・歴史博物館の交流協定締結式の時だ。これには前史がある。

Sさんは台北支局時代に、台湾と日本の炭鉱技術者の交流史を発掘した素晴らしいレポートを記事にされた。それに触発されて、私は田川市石炭・歴史博物館と台湾の炭鉱博物館との交流事業に関わるようになっていた。あまり広くは知られていないが(田川市、広報もっと頑張ろうよ!)、この交流事業は画期的なものだと、私は秘かに確信している。。

台湾という存在は、私たち日本人が自分自身を映す鏡として、独得の意味をもっているように思う。植民地時代を含めた過去の歴史、戦後から現在に至る東アジア国際政治の中での台湾の位置、日本の戦後の歴史意識など、さまざまな要素が複雑に絡み合って、他の諸地域がそうであるのとは微妙に異なる、独得の鏡となっているように思えるのだ。

炭坑という存在を介しての交流史という視点は、そこに結ぶ像を、意外な角度からクリアーにしてくれるのではないだろうか。Sさんの仕事を引き継いで、中川さんの現地報告に期待するところは大きかったのだが、本当に残念だ。

新平溪炭坑博物館を下ったところにあるのが十份の駅である。十份は、願いを書いた天燈(ランタン)を飛ばす行事で有名だ。昨年10月の新平溪博物館でも、雨の中を皆でランタンを飛ばした。一番大きなランタンに中川さんが書いた言葉は、詳細は忘れてしまったが、作兵衛さんと台湾をつなぐ言葉だったと記憶している。

ほんの小さな記憶の断片が集まって、それほど深かったわけでもない人との付き合いが、消しがたい存在となって残る事がある。ざわつきが止まらない私の中で、「安らかに」という言葉は、なかなか出てこない。中川さんの書いた記事を、改めてまとめて読んでみたいと思った。

2017年9月12日火曜日

こども大使、侮るべからず

本年度の自主企画展、「よみがえれ!鴻臚館―行き交う人々と唐物―」が、7日から始まりました。

日本が「シルクロードの終着駅」であるとするなら、博多湾はその表玄関でした。鴻臚館は、その前身とされる筑紫館(つくしのむろつみ)とよばれた時代から数えると、およそ400年(7世紀後半~11世紀前半)の長きにわたって、古代日本の外交と交易の最前線を担ったのです。

平安貴族が競って求めた舶来品=唐物(からもの)の多くは、この地を通って都にもたらされたものでした。また遣唐使や法を求めて唐に渡った学僧、鑑真のような戒律の伝授に日本に渡った僧なども、この地を通過し、あるいは逗留して、最先端の知識や技術をもたらしたのです。

今回の展覧会では、約40点の国宝・重要文化財を含む、500点あまりの資料によって、最新文化の玄関口であった鴻臚館の姿が明らかにされています。現段階における考古学、歴史学の最新の成果をふまえた、鴻臚館のすべてをお楽しみ頂きたいと思います。

今回の展覧会では、応募してくれた小学生の皆さんの中から、男女5名ずつ、計10名の「鴻臚館こども大使」を任命いたしました。小学生の皆さんに、ふるさとの歴史を知って貰うとともに、その大切さ、面白さを広く周りの人々に伝えてもらおうというわけです。

とはいえ、まあちょっとした話題作りになればいいか、という見え透いた魂胆もなきにしもあらずだったのですが(私だけか?)、侮ってはいけません。

こども大使の一人、百道浜小学校の丸山新奈さんは、何と開会式前日のプレス向け内覧会に自主参加!(当館では誰も頼んでいません)。大勢の新聞記者さんやテレビクルーに交じって取材してくれました。「ちょっと怖いな」と言いながら、取材陣の中に入っていく姿は感動的ですらありました。



新奈さんは翌日の開会式にも来てくれました。というか、すでに内覧会の前から、毎日のように通ってくれていたのです。これはもう、テープカットに入ってもらうしかないでしょう。



小学校三年生ですよ!
遊びほうけていた我が小学生時代と引き比べると、この差はいったい……

こども大使の皆さんには、9日の「古代衣装ファッションショー」にも、モデルとして登場してもらいました。



見てくだい。この真剣な眼差し!我々も見習って、これくらい真剣に取り組まねば...






2016年11月22日火曜日

都市福岡を極める/究める~その③ 150万都市のDNA~

半年近く滞った「都市福岡を極める」、またも忘れた頃の更新です。相変わらずでスミマセン。 

前回は、吉田初三郎の鳥瞰図を素材に、福岡市が明治以来めざしていた発展ベクトルの軌道修正という仮説を提示してみました。 

伸びやかに美しく、博多湾岸と近郊の観光・遊覧スポットを紹介する初三郎鳥瞰図。1936(昭和11)年の築港博覧会をきっかけに、博多商工会議所が依頼した観光鳥瞰図が示すものは、企業誘致から観光振興へという軌道修正への模索ではないか。 

もちろんそのような見方は、福岡市の今日に至る発展のあり方を知っている者の、歴史の後知恵です。企業誘致による産業都市化への夢は、第二次大戦後も放棄されてはいません。 でも、昭和10年代の観光鳥瞰図は、福岡市の都市的発展の動力が、「工場」から「交通」へと転換していくことを予見するかのような、あるいはそんな見方に私たちを誘い込むような魅力を秘めています。(この場合の「交通」は、広く人、モノ、情報の流通全般を指すとお考え下さい。) 

前田虹映「観光乃福岡市」(原画、福岡市博物館所蔵)
そう考えると、より興味深いのは前田虹映による鳥瞰図です。
虹映は初三郎の高弟にあたる人で、やはり博多商工会議所の依頼で福岡市鳥瞰図を描いています。 虹映鳥瞰図も、初三郎と同様に陸から博多湾を見るように描かれています(この構図が海港都市の鳥瞰図として例外的であることについては、前回ブログをご参照下さい)。初三郎に比べると、より絵画的で細密な描写が印象的ですね。画面のそこここにさまざまな人物が書き込まれているのも、注目ポイントです。 

そのような目で細部を見ていくと、福岡市の観光・遊覧都市としての側面がより強調されていることが分かります。それだけでなく、「工場」から「交通」へという視点から見て、見どころ満載なのが虹映鳥瞰図なのです。


部分拡大図①

例えば博多駅(画面中段右寄り、部分拡大図①)。駅に降り立った家族連れは明らかに観光目的でしょう。さらに拡大図①の手前、油山に遊ぶ人々は、服装から見ても行楽というより、ハイキングというモダンな言葉がぴったりです。ハイキングはこの絵が描かれた当時の新しい流行で、昭和10年前後にはハイキングの手引き書が数多く出版されています。


部分拡大図②

あっと驚くのは、部分拡大図②です。百道浜で海水浴を楽しむ横では、蒙古兵に切りつける鎌倉武士の姿が、そして沖合(というより目の前)には、何と沈み行く蒙古の軍船が描かれています。 現在に重ねて、同じ画面に歴史上の場面を描いてしまう。これはもう拡張現実の手法で観光に歴史を動員する、1930年代のARでしょう。 同時に、歴史を動員する観光プロジェクトで、金印はまだ影も形もないところも注目されますね。 



部分拡大図③

では「工場」の方はどうでしょうか。部分拡大図③をご覧下さい。画面右側の海沿いの土地は、博多湾築港計画で新たに埋め立てられた箱崎浜です。現在では流通関連の倉庫などを中心とした施設が集中しています。 画面上では、林立する煙突が印象的ですが、もちろんこれは想像図です。埋め立て完了と同時に工場が立ち並んだわけではありません。ここには、明治以来の博多湾築港の夢、すなわち埋め立て地への工場誘致の願望が表現されているのです。 

しかし全体図で見ると、願望の実現にしては存在感が薄いと感じます。それに比べて、雁ノ巣の福岡第一飛行場のしっかりした存在感はどうでしょう。 福岡市史の編集委員会副委員長をつとめて頂いている、長崎大学名誉教授の柴多一雄先生が最近の研究で明らかにされたところによれば、福岡空港は昭和10年代の初めには、発着便数、旅客数、貨物数の全てにおいて、東京、大阪をはるかに上回る位置を占めていたのです。 

いかがですか。
このように見てくると、虹映鳥瞰図はまるで、「工場」から「交通」へという福岡市の発展の方向性を予見していたように見えてきませんか? ちょっと乱暴かもしれませんが、150万都市福岡のDNAが見えたと言ってみたい気がします。 

はじめて公開される柴多先生のご研究を含め、本ブログで取り上げた福岡市の都市的発展の来歴について、今週土曜日の市史講演会で詳しく取り上げます。福岡大学工学部の石橋知也先生からは、戦後の都市計画と海に開いてゆく福岡市に関する、とても興味深いお話をうかがいます。

古代のロマンとはまたひと味違う、歴史的想像力の世界にひたってみませんか。 直前の告知になって申し訳ありませんが、是非ご来場下さい。

なお、福岡市博物館では、特別展示室Bで、展覧会「大正・昭和の福岡市ーアロー号とその時代」を開催中です。会場で、吉田初三郎と前田虹映の鳥瞰図の実物をご覧いただけます。こちらの方にも、どうぞお出かけください。




【チラシPDF】 http://www.city.fukuoka.lg.jp/shishi/pdf/lecture12.pdf

【福岡市史ホームページ】 http://www.city.fukuoka.lg.jp/shishi/

【大正・昭和の福岡市ーアロー号とその時代ー】http://museum.city.fukuoka.jp/exhibition/tokubetsu.html#arrow

2016年10月8日土曜日

ここまで来た文化財交流 ~釜山福泉博物館の特別展示「日本の古代文化」~

今月4日、5日の両日、韓国を訪問してきました。主な目的は、釜山福泉博物館の特別展「日本の古代文化」の開会式に出席するためです。奈良の橿原考古学研究所とともに、福岡市からも、吉武高木遺跡出土の重要文化財を含む遺物をはじめ、多数の資料が出品されています。113日には、国際学術シンポジウムも開催される予定です。

展覧会場は常設展示室の一部を使用した、比較的コンパクトなものですが、そんなことよりも、韓国の博物館で「日本の古代文化」をテーマに掲げた展覧会が開催されることに、なにがしかの感慨を抱かれる方も、少なからずおられるのではないでしょうか。私も、日韓の文化財交流もここまで来たかとの思いを抱きました。

会場入り口。メインビジュアルのチャーミングな女性の埴輪は橿原考古学研究所所蔵。
韓国の博物館はビジュアルの処理が上手です。

展示解説中の担当学芸員・金東潤(キム・ドンユン)さん

あまり広く知られていないかもしれませんが、福岡市と韓国の釜山広域市は、1996年から文化財に関する交流事業を行っています。正式な事業名称は「福岡市・釜山広域市文化財担当者交流事業」、現在三期目を迎えており、今後も継続されるはずです。

これまでに展覧会だけとってみても、企画展「考古資料からたどる日韓交流展」(福岡市博物館、20091117日~1213日)、国際交流展「土を捏ねて玉を作る 竜泉青磁」(釜山市博物館、20111210日~201225日、福岡市埋蔵文化財センターから多量の陶磁器を貸し出し)などが開催されています。それ以外に、事業の眼目である文化財担当者の交流は、日常茶飯事といっても過言ではありません。そのような交流の積み重ねの上に、展覧会が成り立っているのです。

文化交流は、長い時間をかけた蓄積の上に開花するものです。打ち上げ花火のように、いっとき新聞の見出しになっても、すぐ消えてしまうようなものでは意味がありません。くどいようですが、「日本の古代文化」をテーマとする展覧会が、韓国の博物館で開催されたことの意味を、私たちは改めてかみしめるべきでしょう。そこには、地道な積み重ねがもたらした、文化交流の深みと奥行きが示されていると思います。これはやがて必ず、社会のさまざまな面で効いてきます。

それにつけても、私たち文化財関係者はパブリシティが下手ですな! 市民の皆さんの多くは、こんなことご存じないと思います。これって、市民に対する説明責任の問題だと思うんですよね。ひたすら自戒……

滞在二日目の5()午前中、釜山地方は台風18号に直撃されました。私のスマートフォンにも、二度ほど緊急速報のようなもの(ハングルが読めないので、「のようなもの」としか言えません)が入ってびっくりしました。被害に遭われた皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

2016年8月27日土曜日

豊田泰光さんのこと・続 ~東京・大阪が遠かった時代~

追悼の思いを込めて、豊田さんのお話の続きです。(豊田さんのお話は、びっくりと笑いの連続で延々と続きます。ご紹介できるのはほんの一部です。)

「西鉄の歴史のなかで、何がって言ったら、全部、僕の話は稲尾になるんですよ」という豊田さんにとって、ライオンズとは煎じ詰めると稲尾和久に尽きる。

そんな豊田さんと稲尾投手との出会いは、いろいろな本にも出てきますが、何度聞いてもびっくりしてしまいます。たまたま合宿所で留守番役だった豊田さんのところに、ガリガリに痩せて風呂敷一つ(!)の稲尾青年が訪ねて来ます。そのときの問答。

「布団は送ったのかっていったら、布団がいるんですかって、うち貧乏で布団ないんですよって」
私もびっくりして聞き直します。

〇有馬(以下A) そのころライオンズは、自前で布団もってこないといけないんですか?
〇豊田(以下T) そうですよ。
〇A 合宿所も?
〇T ひどいもんですよね。だから、朝ご飯でもね、卵1個はあるんですよ。焼いてもらうとか、生とか。で、目玉っていうと、もう1個買わにゃいかんのですよ。自分で買うんですよ(笑)。そういう世界ですから。西鉄ってのは、せこいとこだなと思ってですね。

〇A 他球団と比較してどうだったんですか、そのへんは。
〇T いや、そういう私生活まではわかりませんもんね。だから何年かたってからですよね。わかりだしたのは。
食堂車がついたころ、まあ、かもめが昭和28年の5月10日に通るんですよね。そのときに食堂車がついてましたもんね。で、しばらくたったときに、三原さんがビール飲んでいいっていうんですよ。未成年はだめですよ。で、なんでかなあって不思議で、僕らはわかんなかったですけどもね。結局、その博多・大阪間10時間ですからね。かもめでね。

〇A そうですね、そんなもんですね。
〇T これね、起きてたら疲れちゃうんですよ。だから、ビール飲んだら眠くなる。これがあの人の狙いでした、ええ。まあ、たいがいベテランが飲んでますけどね。でも、ピッチャーなんかは、まあ一杯くらい飲んだら真っ赤になっちゃうくらいの奴は、寝てますもんね、ほんとに。
これはね、僕すごく後でわかったことなんですが、まあ31年に優勝して、巨人とやるでしょう。で、東京で1勝1敗になって、博多に列車移動なんですよ、あの頃。列車移動をやるのに先に西鉄が食堂車でメシ食うんですよ。そんときに、ビールが出てるじゃないですか。巨人がそのあと来たらビール飲んじゃいけないわけですから、ものすごく羨ましがられたですよ(笑)。僕、あれでシリーズ勝てたんじゃないかと思ったりしてね。妬みで勝ったなあという感じですよ。でもやっぱりそういうのってね、あの、僕らは吹くじゃないですか。うちのおやじはものわかりがよくてよー、とか何とかいっちゃうじゃないですか。するとね、そうだよなあってなっちゃうんですよね。あの、西鉄の選手ってのは、そういうことをいう奴が、上手い奴がいっぱいいたんですよ。


西鉄ライオンズの飲酒伝説というのがありました。実際には、二日酔いでホームランなんてあり得ないと豊田さんは強く否定されましたが、もしかしたら伝説のネタ元はこれかも、というので話してくれたのが上のエピソード。


博多・大阪間が10時間かかった頃。小学校一年生の時、鹿児島を朝発って、二度目の夜に東京に着いたという引っ越しを経験している私には、リアルに迫ってきます。
移動の話が続きます。


〇A 移動の話ですけど、移動のときは列車は何等なんですか。
〇T ええと、ランクによるんですよね。
〇A 選手の?
〇T 選手の。で、グリーンっていうか二等車だったですけどね、二等車乗る人ってのは、まあ大下さん*とか川崎さん**とか三原さん(監督)とか、まあそこいらぐらいですかね、ええ。あとはまあ三等車で、ええ。で、やっぱり31年ぐらいから30年くらいからかなあ、グリーンに僕ら乗せてもらったですよ。それはあの、それこそ二等車に乗せてもらわなかったら、とてもじゃないけど体もたないですよ。
〇A だったと思うんですよね。
〇T ええ。だからもうみんな体操ばっかりしてましたよ(笑)。体操してたしね、網棚のうえに横になって寝たいな、とかね、そんなこという人もいたしね。でもね、1年目なんかはそういうきつい旅行しているときに、席とってると先輩が取り上げるんですよね、どけっていって。補欠でもそういうこというんですよ。そんとき僕らに、バッグを並べてね、豊田ここに寝ろとかね、仲間がいってくれるんですよ。だから、僕らが入ってからあのチームはよくなったですけどね。まあ、戦後っていいますかね。戦中は小学生だったからね、やっぱりその、国民学校からまあ新制中学に入って、それなりの世の中の明るさみたいなものが大事だっていうのをもった子が、はじめてプロ野球に入ってきたと思うんですよ。
〇A ああ、なるほどね。そういう意味がある。
〇T ええ。あると思うんですね。そこへもってきて、アメリカ人と一緒に野球やるとは思わなかったし、だからいっぺんで、なんかそういう古くさいこととか固いこととか、ポンと捨てたっていうか

若い方には三等車といっても、「?」でしょう。二人がけが向かい合わせになっている。背中合わせに後ろの人が座っているから、リクライニングなんかするわけがない。固定の硬い椅子です。そんな席で、一軍選手が大阪から10時間の移動!
でも、そんなエピソードが、ただのエピソードで終わらないのが豊田さん。

席に座った若手に「どけ」という先輩。上下関係という戦前からの意識丸出しの人間がいる一方で、バッグを並べて、ここに寝ろといってくれる仲間。
戦後になって、「それなりの世の中の明るさみたいなものが大事だっていうのをもった子が、はじめてプロ野球に入ってきた」という、ここがこの話のキモでしょう。

「面白く生きないと辛い」時代という前回の発言と合わせて、「職業野球」という戦前的な存在から、国民的な娯楽スポーツとしての「プロ野球」に転換していく戦後社会の変わり目を、見事に表現しきった発言だと思います。

個人的には、豊田さんはとても知的な人だったと思います。知と情を兼ね備えた人、ファンとともにあった人、そしてもちろん何よりも野球を愛した人でした。偉大な野球人を偲んで、合掌したいと思います。

*大下弘 川上哲治と並んで戦後初期のプロ野球を代表する強打者。ライオンズの四番。
**川崎徳次 草創期ライオンズのエース。1957年に引退

2016年8月19日金曜日

豊田泰光さんのこと ~偉大な野球人の言葉に耳を傾けよう~

西鉄ライオンズの名遊撃手として、また引退後は歯に衣着せぬ明快な語り口の評論家として、多くの人に強い印象を残した豊田泰光さんが、今月14日に亡くなりました。豊田さんは、福岡市博物館にとっても大切な方でした。本当に残念です。


偉大な野球人でした。私たちはこの人によって語られた言葉に、もっと耳を傾けるべきだと思います。
私ども福岡市博物館も、二度にわたってお話をうかがっています。私が重要だと考えるのは、豊田さんのお話が、抱腹絶倒の笑い話を通して、戦後プロ野球の歴史は庶民が生きた戦後日本社会の歴史そのものであることを、見事に物語っているからです。

豊田さんの西鉄ライオンズ入団は1953(昭和28)年、鉄腕投手・稲尾和久を擁して読売ジャイアンツを相手に日本シリーズ三連覇を果たしたのは1956年~1958年です。
1958年は東京タワーが建った年、戦後日本はテレビの時代の入り口にさしかかっていました。しかし庶民の生活は、ようやく敗戦後の混乱から立ち直って、落ち着きを見せ始めた頃、まだ高度成長の果実など行き渡っていない時代でした。

でも、そんな説明は抽象論に過ぎないかもしれません。豊田さんの語りを通すと、こんな感じになります。


有馬(以下A) 豊田さんがこれ*によると最初月給3万円っていうことでしょう。
豊田(以下T) 3万円でしたね、はい。
A それで感じがなかなかつかめないんだけども、どんな感じですかね、当時3万、まあ高卒だからたいへんなもんでしょうけど。
 ああ、たいへんなもんですよ。
はい、あのー、昭和28年はですね、8千円ですね、ええ、学卒8千円。高卒が35百円から4千円ぐらいの間ですから、食ってけないですよね。親の仕送りとかなんかないとね、やってけないですよね。だから西鉄でいちばん安いやつは1万円でしたね、1万円。
A 月給が?
T ええ、でも道具買わないかんから。やっていけないですよね。だから相当な苦しさでしたね。


A 感覚的に水戸商業からプロ野球に行くのは、まあ例えばプロの選手になったらどういう生活をするんだろうとか、そういうレベルでいうと、入る前にどういうふうに感じてらっしゃったんですか。
T まったく知識ないです。
A なし?
T ええ、ないです。大学行くつもりでいましたから。そしたら甲子園から帰って、父親見たら、こう揺れてますから、ああおかしいなあと思ってですね、で、もうこれは就職しなきゃいかんかなと思って、最初はですね。
日立市に住んでましたから、日立製作所と日鉱日立が野球部ありますから、これどっちかに就職して、まあ就職はできると思ってますから、野球でね、できると思ったですから、それでまあ親孝行でもせにゃいかんかなあっていうふうに思ってたときに、スカウトが来たんですよ、学校の校長室にね。
で、校長はとにかくプロに出したくてしょうがない人だったんですよ。ええ。もうとにかくね、甲子園に行ったときはまた喜んでね。それでとにかくスカウトの、あの宇高さんに、お宅はプロ一人もいませんねって言われたら、いや今年2人入るつもりですからって自分で言ったんですよ(笑)。行けと言わんばっかりだもん、だからまあ


A まあそうすると、プロの選手になったらこのくらいのいい生活はできるだろうとか、そういうイメージはないんですか。
T ないです、ないです、ないです。合宿に入ったから()
A それはそうだけど。
T ご飯は何杯食べてもいいっていうだけですから。おかずがないんですから。
A その話もすごいですよね。
T ええ、だからあれですよね、ご飯のおかずってのは、一膳食べたらおかずなくなっちゃうんですから。で二膳めから食べるのは、あの高菜の油炒めあるじゃないですか、あれが丼一杯あるんですよ。あれがご馳走ですから、二杯めから。あれは今でも好きですよ()

A だから例えばその、それこそ体が資本のプロスポーツの選手でっていう、なんかそういう栄養学的な発想とかね、皆無ですか、それは。
T 皆無ですね。ですから興味は持ちますよね。何で精つけたらいいかとかね。
だけど三原**さんってね、すごいと思うのは、遠征にいったときに生魚食うなっていうんですよ。氷の冷蔵庫の時代ですから。合宿でももう魚、生魚が一回も出たことがない。
三原さんはね、生魚食わせなかったのは正解なんですよ。だから生魚をね、平気で食ったのは稲尾だけですよ。鮮度を知ってますからね、あれは。
A ええ、慣れてますからね***、それは。
T ええ、なんかこうやって、大丈夫、大丈夫、大丈夫って食べるんですよ、自分で。僕はもうおっかなかったから食べないとね、食べないんですか、豊田さん、じゃあ代えましょうっていってね、おしんことね、刺身とっかえるんですよ。だからあいつのエネルギーだいぶ僕のですよ()


T 面白い時代ですよ。そんなのは笑い話なんですから。
A そうですね。でもまあ、これも歴史の一コマで、やっぱりいろんな形でですね、ちゃんと残しておくべきだろうなあって思うんですね。
T あーそうですね、そうですね。あのころはね、面白く生きないと辛いんですよね。だからもう、だいたいみんな面白い話にいっちゃうんですよ。作り話でもなんでもいいから面白くしちゃうんですよね。だからそういうのって、僕もけっこう好きだったですよね。騙されてきいてましたけどね。
A ああ、なるほどね。面白くしないと辛いってのは、なるほどね。そうですよね。
T ええ、辛いですよ。ほんとうに辛いですよ。腹へってるかなんて聞けないですからね、いつもへってるから。だからおごってくれるのってなっちゃうからね()。聞かないですもん、そういうことは。


面白く生きないと辛い時代。博多っ子を熱狂させた野武士野球の時代背景と言ってしまうと、訳知りに過ぎるかもしれません。豊田さんのお話、もう少し続けます。

*『風雲録 西鉄ライオンズの栄光と終末』(1985年)
**三原脩。195159年に、西鉄ライオンズの監督をつとめ、リーグ優勝4回、うち3回は日本シリーズ優勝に導く。1960年、セ・リーグの大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)監督に転じると、万年最下位のチームをリーグ優勝・日本一に導き、三原魔術と称された。
***稲尾投手は別府市出身で父親は漁師。子供の頃から漁の手伝いをしていた。


豊田さん晩年の語り口にもう一度接してみたいと思われる方は、館内の常設展示室でインタビュー画像を公開しています。ぜひ当館へ足をお運びください。

2016年6月10日金曜日

都市福岡を極める/究める~その② 海を見ていた福岡~

忘れた頃にやってくる更新にお付き合い頂いて恐縮です。深く反省しております。。。

前回は、わが百道浜こそ、福岡市がはじめて海に向かって開いた開発だったというお話から、福岡市博物館の正面ゲートが、さして便利とはいえないよかトピア通り側にあるのはなぜかという謎に迫りました。博物館の南北の軸線は、海に向かって開かれた百道浜の開発理念を体現したものだというのが、前回の結論です。

そしてここからは、前回の予告どおり、博物館の軸線が示す理念は、都市福岡の来歴を語っているのだというテーマに入ります。

百道浜こそ、福岡市がはじめて海に向かって開いた開発だった、なんてなぜ言えるのか。その問題はおいおい考えるとして、ここで、都市福岡の来歴にかかわる、面白い資料をご紹介しましょう。

地形を極端にデフォルメした技法が特徴の観光鳥瞰図で一世を風靡した、吉田初三郎による福岡市の鳥瞰図です。お好きな方は一目で分かりますね。依頼したのは博多商工会議所、1936(昭和11)年頃に描かれたものと考えられます。

博多観光鳥瞰図、原画、当館蔵


1936年は博多港の築港竣工を記念して、築港博覧会が開催された年です。博多商工会議所はこの機会に、観光振興の大キャンペーンを企画したようです。観光鳥瞰図を印刷して配布するのは、当時は最新流行の手法でした。それにしても超売れっ子の初三郎、さぞかしギャラも高かったことでしょう。

華麗な彩色と、広げた翼が博多湾を抱え込むような構図は、初三郎鳥瞰図の特徴を遺憾なく発揮して、心躍らせるものがあります。しかしこの鳥瞰図には、それ以外に特筆すべき特徴があるのです。
初三郎が描いた都市鳥瞰図の中には、福岡市以外にも海に面した海港都市を描いたものがたくさんあります。それらの海港都市鳥瞰図に比べると、福岡市の観光鳥瞰図の構図は、実はとても例外的なのです。

ご近所の例として、小倉の鳥瞰図と比べてみましょう。小倉は画面の手前が海、次に町があり、背後に山という構図で描かれています。実は初三郎が海港都市を描くときは、ごく少数の例外を除いてこの構図が基本なのです。初三郎は日本本土のみならず、植民地朝鮮の釜山・仁川や、大陸への玄関大連など、海外の海港都市も描いていますが、それらも画面手前から海・町・山という構図をとっています。これを仮に「海から都市」構図としましょう。

小倉市交通名所図会、北九州市立自然史・歴史博物館所蔵

福岡・博多を描いた鳥瞰図は全く逆に、画面手前に山(というほどのものではありませんが)、中央に町、そして画面奥に博多湾から連なる海が水平線の彼方まで広がっています。「都市から海」構図です。人びとの視線を「海へ!」と誘うような、強いベクトルを感じませんか?

福岡市観光鳥瞰図には、ほぼ同じ時期に初三郎門下生によって描かれたものが、少なくとも二種類知られています(原画と印刷版を合わせて一種類と数えて)。描かれた初三郎以外によるのも、すべて例外無しに「都市から海」構図なのです。
これは発注した博多商工会議所や福岡市観光協会が指定した構図なのか、それとも福岡市鳥瞰図を描こうとすると、おのずとこうなってしまうのか?
いずれにしても興味尽きない構図です。

ここでもう一歩、描かれたもののディテールに寄ってみましょう。福岡市中心部から現在の東区箱崎辺りにかけて、海岸に沿って建物が描かれていない長方形の空白の区域があります。これが完成したばかりの埋め立て地。埋め立てで港湾を整備し、同時に工場を誘致して産業都市として発展したいというのが、明治以来の福岡市の悲願だったわけです。

しかしこの鳥瞰図の主眼は、そのことよりも市内と近郊の観光・遊覧スポットを紹介することに重点が置かれています。築港記念で観光?
それは、近代福岡市がめざした発展ベクトルの軌道修正だったのではないかというのが、私の仮説です。企業誘致から観光振興へという軌道修正への模索が、昭和戦前期のこの辺りから始まっているのではないか。そして、楽しく伸びやかな遊覧都市を描こうとすると、必然的に「都市から海」構図になるのではないか。

このブログ初回の「上書き都市」論の中で、一度はめざした工業都市の夢をあきらめたことが、今日の福岡市発展につながったと申し上げました。明治以来の工業都市路線と、新たに芽生えた遊覧都市路線のせめぎ合い。それが初三郎鳥瞰図に表れているという仮説はいかがでしょうか。
そして、初三郎鳥瞰図の海に向かう伸びやかな視線は、後者の勝利を予測していた?
さすがにそれは深読みしすぎか!

でも、福岡市博物館が体現している「海へ!」の軸線は、都市福岡の来歴を物語っているという説には、ご納得頂けるのではないかと……ダメかな?(笑)