2015年10月1日木曜日

「上書き都市」福岡と歴史の古層 ~ブラタモリから考える~

街並みに浮かび上がる中世の博多


 919日放映のNHKブラタモリ「博多編」、ご覧になりましたか。103日には「福岡編」も放映されるらしいので、楽しみにしましょう。

 ところで「博多編」では、現代の街並みに残るわずかな高低差や微妙な街路のズレに注目すると、目の前に中世の博多が浮かび上がってくるような手法が、とても印象的でした。
 
 街に残るわずかな痕跡から、古地図を重ねたように過去が浮かび上がってくる。ブラタモリでは珍しくありませんが、これ実は、博多にぴったりの手法だったんですね。タモリさんに同行した2名の当館学芸員、いい仕事をしてくれました。


遺跡の上の街・博多


 番組の中で明らかにされたように、博多という街は何層にも重なった遺跡の上に乗っています。逆に言えば博多という街は、次々に過去の上に現在を積み重ねて出来てきたんですね。

 過去は個人にとっても社会にとっても、自分が何者であるかを確認する根拠として大事なものですが、反面ちょっと重たい足かせでもあります。あまり過去に縛られすぎると、自由な行動ができません。そう考えると、博多の土地柄というのは、いさぎよいまでに簡単に過去を振り捨てて、その上にどんどん新しいものを上書きしてきた場所だって思いませんか?

 タモリさんも番組中で、そんな趣旨の発言をされていました。さすがに鋭いです。


「上書き都市」博多


 歴史研究を専門とする私としては、過去を尊重しない=歴史の破壊と考えると、困ったことになります。なので、ここでは破壊ではなく「上書き」と考えてみましょう。コンピューターの世界で言うところの、古いデータの上に新しいデータを書き込んで、古いデータを消していく上書きです。

 上書きのミソは、古いデータが完全に消滅するわけではなく、専門的な技術で復活させることが出来るということです。ほら、新しい地下鉄を作るという上書き行為で、弥生時代の古層が姿を現したじゃないですか。


歴史の重みを感じない街・博多


 京都は1200年の古都ですが、福岡・博多は奴国からざっと数えても2000年です。でも福岡の町を歩いても、京都のような歴史の重みは感じません。犬も歩けば国宝に当たったりはしません。

 2000年の歴史を誇るにはちょっと軽いですか? でも、その軽みが福岡という都市の発展の原動力だったのではないでしょうか。そのことは、福岡という街が、煙突が林立する近代産業都市にならないまま、150万都市に成長したことと関係があるように思います。


北九州になりたくてなれなかった近代都市・福岡


 ある方に言わせると、福岡市は、北九州になりたくてなれなかった都市なんだそうです。重厚長大な産業都市北九州。それは近代日本の都市発展の王道でした。福岡市も当然のようにそれを望んで、しかし果たせなかった。
 
 ただし、「なれなくて残念!」、ではないところがこの話のポイントです。

 しばらく前まで、福岡市の経済構造を表すのに、「支店経済」という言葉がよく使われました。この言葉には、「九州の中心都市といったってしょせん支店でしょ」という、少し軽んじるニュアンスがあります。でも現在では、福岡市の特徴を「支店経済」と表現する人は、ほとんどいないのではないでしょうか。

 「本店」の重々しさ。それは簡単には変えられない過去の重苦しさと似ています。その制約から自由だった福岡・博多は、時代が重厚長大なモノ作りの「近代」から、消費と情報のハイパーモダン社会に突入する中で、一挙に成長を遂げたと言えないでしょうか。


「上書き都市」は歴史を抹消しません


 わりと簡単に過去にさよならをして、軽やかに(あまり深く考えず)新しいものに移っていく。しかし軽い分だけ、過去を徹底的に否定し、破壊し尽くすわけではない。微妙なところですが、むしろ近年の上書き行為は、その逆を行っているのではないでしょうか。

 地下鉄工事は典型的な上書き行為でしょう。でもそれが、幾重にも重なる歴史の古層を明らかにするのです。文献資料でしか知られなかった中世の博多は、博多遺跡群という形あるものとして、私たちの目の前に姿を現しました。その中世博多も、さらに古い過去への上書き行為の結果なのです。

 できることなら、福岡市の発展(開発)が歴史の尊重と二律背反にならないような視点を創りだしたいですね。上書き都市がもたらす歴史の誇り、ちょっと変化球かな?

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