2015年11月5日木曜日

市史粉塵 その1・谷ガール

 



 
 わたくし、博物館長とともに福岡市史編集委員長を兼ねております。文字通り獅子奮迅の働きを続ける編さん室スタッフの影で、粉塵のようにフワフワと漂うだけの編集委員長による、福岡市史編さんにまつわるサイドメニューを時々アップします。
 それとは別に『市史だより』に1頁いただくようになりました。出たばかりの最新21号からスタートです。紙媒体の方もごらん下さい。


 山ガールなんて言葉が使われるようになって久しいですね。人生、山もあれば谷もあります。というわけで、谷ガールです。

 NHKのブラタモリ博多編では、平坦な博多部のほんのわずかな起伏が、歴史を読み解く鍵でした。しかし旧福岡城下に目を転じると、けっこうなアップダウンがあるのは地元の方なら御存知の通りです。

 『市史だより』第21号の特集は、そんなアップダウンの攻略を試みた、「四十八渓ウォーク――警固・赤坂・桜坂――」です。なるほど、けやき通りから南に入るとけっこうな坂に突き当たりますね。このあたりは丘陵の北端にあたり、尾根と谷が入り組んだ地形になっています。明治36年に刊行された『筑前志』(著者はかの福本日南!)には、四十八渓と書かれています。どおりで、現在でも〇〇谷と名のつく地名が多いですね。
 この地域には古墳もあり、古代からの営みがあったようです。近世には鷹匠や鉄砲・火薬に関わる者、測量、花作り、書家など、特定の専門的な職能に携わる藩士が集められたとか。

 複雑な地形のせいか、大規模開発を免れたこのあたりは、現在でも路地や坂道が入り組んでいます。この企画に参加した女性スタッフは、四十八渓ウォークを通して、谷に萌えてしまったらしく、飲み会の席で、「地蔵谷が~っ」「浪人谷が~っ」と熱く語られてしまいました。そんなこと言われてもなぁ……。
 でも、谷ガールとお付き合いしたいかどうかは別として、皆さんも『市史だより』をガイドに、細部に宿る歴史の痕跡をたどってみてはいかがでしょうか。表紙の坂を見るだけでも、健康によさそうな気がしてきます。

 しかし、よくもまあこんな企画を考えつくものです。皆さんは、福岡市内をこんな視点から見た事がありますか? どうだ、驚いたか!と言いたいところです。
 そもそも『市史だより』の特集企画全体が、編集委員長として自慢の一品です。といっても、私は制作には全く関与させてもらえません。企画立案から調査、執筆に至るまで(写真撮影も)、すべて編さん室の非常勤職員と嘱託員によって行われています。私は次にどこを取り上げるかさえ教えてもらえないという、トホホな状態です。きっと、教えたら口出しされると思われてるんでしょう。

 特に9号以降、地域特集になってからのとんがり方は並大抵ではありません。「七隈の土」、「多々良をたがやす」、「曰佐さんぽ」、最近の号のタイトルを見ただけで、切り口の冴え具合がうかがえませんか?

 お散歩のガイドに、蘊蓄を傾けるネタに、そして「わが町」への愛をはぐくむ一冊として、是非お手にとってごらん下さい。こんなに中身が詰まっていて、何と無料配布!1階のミュージアム・ショップ横のラックに、バックナンバーも含めて置いてあります。

2015年10月30日金曜日

「上書き都市」の起点は奴国 ~「新・奴国展」が切り開く新地平~


 1017日に、開館25周年を記念する本年度の自主企画展、「新・奴国展――ふくおか創世記――」がオープンしました(1213日まで)。ぜひご覧いただきたいと思います。
 それにちなんで、「上書き都市」論の続編です。今回はちょっとゆるいです(前回は厳密だったのかい! なんて突っ込みは止めましょうね)。

金色に輝く 新・奴国展 図録

上書きを一枚ずつめくっていくと


 「上書き都市」福岡の上書きはいつから始まるのでしょうか? 逆に言うと、現代に至るまで積み重なった上書きを、下へ下へと一枚ずつめくっていくと、最後にたどり着くのは?
 それは奴国です。
 というわけで、開館25周年記念の特別展は、上書き都市の原点たる奴国なのです。

 もちろん奴国以前にも人の営みはありました。しかし、何らかの政治的、祭祀的な権威を中心とする比較的広域的な共同体として、考古学的にも確認できる最古の存在は奴国でしょう。同様な存在として、伊都国が西に接していたのはいうまでもありません。

奴国の首都? 須玖岡本遺跡


 上書き都市の起点を論ずるからには、ここで最近30年くらいの発掘の成果強調に走りたいところですが、奴国の首都と目される須玖岡本遺跡に見られるように、調査の歴史は意外に古いのです。
 須玖岡本遺跡の発見は1899(明治32)年、住宅建築に伴う偶然の発見でした(ちなみに、伊都国王墓として知られる三雲南小路遺跡の発見は江戸時代の文政年間です)。

 このとき発見された銅鏡は、すでに小片に破壊されており、その後に調査した考古学者によって持ちだされ(当時はルールが確立していなかった?)、大学の研究室をはじめ、各地に散らばってしまいました。今回の展覧会の見所の一つは、それらの鏡片を可能な限り集めて復元展示を試みたことです。
 全員集合というわけにはいきませんでしたが、現在望みうる最良の復元になっていると思います。ぜひご覧いただきたいと思います。ご覧になって、何だこれだけかとお思いになりますか? それとも、なぜこれが同じ鏡の破片だって言えるんだろう、と不思議に思われるでしょうか?

 須玖岡本遺跡は、その後1979年から福岡市教育委員会や春日市によって発掘調査が行われ、1986年に国の史跡に指定されました。奴国の中心がここにあったことは、間違いないでしょう。

奴国の遷都? 比恵・那珂遺跡


 それはそれとして、上書き論者としては、原点である奴国という存在の認識をめぐって、上書きの上書きたるゆえんがほしいところです。思考方法として本末転倒? まあ、いいじゃないですか。

 須玖岡本遺跡から北へ約5㎞にあるのが比恵・那珂遺跡。JR竹下駅の東に、南北約2㎞、東西約700mにわたりますが、行ってみても遺跡らしい姿はごくごくわずかしか残っていません。それもそのはずで、この一体はオフィスビルやマンションが建ち並ぶビル街。なので、ビルの建て替えなどで一つ一つは規模の大きくない発掘調査を重ねた結果、次第にその全貌が明らかになってきた遺跡なのです。
 ほら、上書き都市らしくなってきたでしょう。

 須玖遺跡群と比恵・那珂遺跡群は、奴国の二大中心地です。須玖遺跡群は、古代のテクノポリスとよばれるように、青銅器をはじめとする生産活動の中心地、比恵・那珂遺跡群は、博多湾に近く、交易など対外活動を担っていたと考えられています。
 そして3世紀後半から、青銅器の価値が下がりはじめると、奴国の中心地は比恵・那珂に一本化されていきます。奴国の遷都か?

 そうすると、「最古の王墓」とも言われる早良平野西部の吉武高木遺跡は、奴国とどういう関係になるのでしょうか。考古担当学芸員は、私の素人っぽい質問に即答してくれました。吉武高木は奴国の一部と考えてよろしい。ただ、西は伊都国と接しているので、奴国の中でもやや特種な位置を占めるんだそうです。
 う~む、なるほど(分かったのかい!)。小国とはいえ、外部と接する周縁部には、やはり独得の意味があるんですね。


ナコピン・ナコポン、奴国八景、そして図録だ!



 今回もまた長くなってしまいました。頭が痛くなりそうとおっしゃる貴方に、こっそりお教えしましょう。「新・奴国展」の早回り、早わかりコースです。
 展示会場に、写真のようなキャラクターのパネルが配置されています。このナコピン・ナコポンの解説パネルだけを見ていけば、勘どころは一通り分かるそうです。子供の前でいい格好をしたいお父さんにオススメです。

 より本格的に一席ぶちたい方には、何たって図録でしょう。素人ながら断言させていただきます。奴国にまつわる現段階の学術的論点やトピックで、この図録に載っていないものはありません。
 厚さの割に値段が高いって? 図録はグラムいくらで売るもんじゃありません。奴国のすべてがここにあるんです。

 そしてもう一つのウリは、展示の第二章「奴国八景」(苦心のネーミング、みんな気がついてよ!)。図録の構成も同じです。
 瑞穂城市、那珂直道、比恵清水、月隈墓情(誤植じゃないよ!)、板付秋穂、須玖青炎、安徳奉矛、博多帰帆、これぞ八景!(意味わからんところもあるけど)。
                               

2015年10月1日木曜日

「上書き都市」福岡と歴史の古層 ~ブラタモリから考える~

街並みに浮かび上がる中世の博多


 919日放映のNHKブラタモリ「博多編」、ご覧になりましたか。103日には「福岡編」も放映されるらしいので、楽しみにしましょう。

 ところで「博多編」では、現代の街並みに残るわずかな高低差や微妙な街路のズレに注目すると、目の前に中世の博多が浮かび上がってくるような手法が、とても印象的でした。
 
 街に残るわずかな痕跡から、古地図を重ねたように過去が浮かび上がってくる。ブラタモリでは珍しくありませんが、これ実は、博多にぴったりの手法だったんですね。タモリさんに同行した2名の当館学芸員、いい仕事をしてくれました。


遺跡の上の街・博多


 番組の中で明らかにされたように、博多という街は何層にも重なった遺跡の上に乗っています。逆に言えば博多という街は、次々に過去の上に現在を積み重ねて出来てきたんですね。

 過去は個人にとっても社会にとっても、自分が何者であるかを確認する根拠として大事なものですが、反面ちょっと重たい足かせでもあります。あまり過去に縛られすぎると、自由な行動ができません。そう考えると、博多の土地柄というのは、いさぎよいまでに簡単に過去を振り捨てて、その上にどんどん新しいものを上書きしてきた場所だって思いませんか?

 タモリさんも番組中で、そんな趣旨の発言をされていました。さすがに鋭いです。


「上書き都市」博多


 歴史研究を専門とする私としては、過去を尊重しない=歴史の破壊と考えると、困ったことになります。なので、ここでは破壊ではなく「上書き」と考えてみましょう。コンピューターの世界で言うところの、古いデータの上に新しいデータを書き込んで、古いデータを消していく上書きです。

 上書きのミソは、古いデータが完全に消滅するわけではなく、専門的な技術で復活させることが出来るということです。ほら、新しい地下鉄を作るという上書き行為で、弥生時代の古層が姿を現したじゃないですか。


歴史の重みを感じない街・博多


 京都は1200年の古都ですが、福岡・博多は奴国からざっと数えても2000年です。でも福岡の町を歩いても、京都のような歴史の重みは感じません。犬も歩けば国宝に当たったりはしません。

 2000年の歴史を誇るにはちょっと軽いですか? でも、その軽みが福岡という都市の発展の原動力だったのではないでしょうか。そのことは、福岡という街が、煙突が林立する近代産業都市にならないまま、150万都市に成長したことと関係があるように思います。


北九州になりたくてなれなかった近代都市・福岡


 ある方に言わせると、福岡市は、北九州になりたくてなれなかった都市なんだそうです。重厚長大な産業都市北九州。それは近代日本の都市発展の王道でした。福岡市も当然のようにそれを望んで、しかし果たせなかった。
 
 ただし、「なれなくて残念!」、ではないところがこの話のポイントです。

 しばらく前まで、福岡市の経済構造を表すのに、「支店経済」という言葉がよく使われました。この言葉には、「九州の中心都市といったってしょせん支店でしょ」という、少し軽んじるニュアンスがあります。でも現在では、福岡市の特徴を「支店経済」と表現する人は、ほとんどいないのではないでしょうか。

 「本店」の重々しさ。それは簡単には変えられない過去の重苦しさと似ています。その制約から自由だった福岡・博多は、時代が重厚長大なモノ作りの「近代」から、消費と情報のハイパーモダン社会に突入する中で、一挙に成長を遂げたと言えないでしょうか。


「上書き都市」は歴史を抹消しません


 わりと簡単に過去にさよならをして、軽やかに(あまり深く考えず)新しいものに移っていく。しかし軽い分だけ、過去を徹底的に否定し、破壊し尽くすわけではない。微妙なところですが、むしろ近年の上書き行為は、その逆を行っているのではないでしょうか。

 地下鉄工事は典型的な上書き行為でしょう。でもそれが、幾重にも重なる歴史の古層を明らかにするのです。文献資料でしか知られなかった中世の博多は、博多遺跡群という形あるものとして、私たちの目の前に姿を現しました。その中世博多も、さらに古い過去への上書き行為の結果なのです。

 できることなら、福岡市の発展(開発)が歴史の尊重と二律背反にならないような視点を創りだしたいですね。上書き都市がもたらす歴史の誇り、ちょっと変化球かな?