特に親しかったわけではないし、長い付き合いだったわけでもないのに、突然の訃報を目にした後、体のどこかで、ざわつきがしばらく止まらなかった。
17日の夜、ぼんやりとパソコンでウェブのニュースを眺めていた私は、目に飛び込んできた1行を見て思わず声を上げた。西日本新聞台北支局長の中川博之さんが、台北市内でタクシーにはねられて亡くなったというのだ。まだ48歳というから、新聞記者としては働き盛りである。
何年か前、当館で特別展「世界記憶遺産 山本作兵衛の世界」を開催する前年のことだったと思う。そのころ台北支局長から本社の国際部に帰任されたSさんに伴われて、中川さんの訪問を受けた。それが初対面である。
来意は来られる前から分かっていた。そのころ筑豊総局にいた中川さんは、田川市の世界記憶遺産を所管する機構改革に批判的だった。その内容は、私も西日本新聞筑豊版の紙面で知っていた。記憶遺産(作兵衛さんの炭坑記録画)の保存・活用に関する委員会には、私は最初から委員長として関わっている。
私の意見を聞きたいという来意は、穏やかな表現をすればということであって、ざっくばらんに言えば、お前が居ながら何やってるんだという事だっただろう。でも私にすれば、もとより人事に口を出せる立場ではないし、機構のあり方についても、必ずしもSさんや中川さんと同意見ではない。まあそんなやり取りをしたわけだが、別に気色ばんだ話になったわけではなかった。
後から知った話だが、筑豊総局時代の中川さんは、行政や議員さんたちには、けっこう煙たがられる存在だったらしい。でもそれが批判のための批判ではないということは、批判される側にも伝わっていたのではないか。「また叱られに来ました」と言いながら、議員控え室に入っていけるような人である。煙たがられながらも受け入れられるのは、批判の根底に地域に対する愛があることが伝わっていたからだと思う。
中川さんと最後にお会いしたのは、昨年の10月10日、台湾の新平溪炭鉱博物館で行われた、同館と田川市石炭・歴史博物館の交流協定締結式の時だ。これには前史がある。
Sさんは台北支局時代に、台湾と日本の炭鉱技術者の交流史を発掘した素晴らしいレポートを記事にされた。それに触発されて、私は田川市石炭・歴史博物館と台湾の炭鉱博物館との交流事業に関わるようになっていた。あまり広くは知られていないが(田川市、広報もっと頑張ろうよ!)、この交流事業は画期的なものだと、私は秘かに確信している。。
台湾という存在は、私たち日本人が自分自身を映す鏡として、独得の意味をもっているように思う。植民地時代を含めた過去の歴史、戦後から現在に至る東アジア国際政治の中での台湾の位置、日本の戦後の歴史意識など、さまざまな要素が複雑に絡み合って、他の諸地域がそうであるのとは微妙に異なる、独得の鏡となっているように思えるのだ。
炭坑という存在を介しての交流史という視点は、そこに結ぶ像を、意外な角度からクリアーにしてくれるのではないだろうか。Sさんの仕事を引き継いで、中川さんの現地報告に期待するところは大きかったのだが、本当に残念だ。
新平溪炭坑博物館を下ったところにあるのが十份の駅である。十份は、願いを書いた天燈(ランタン)を飛ばす行事で有名だ。昨年10月の新平溪博物館でも、雨の中を皆でランタンを飛ばした。一番大きなランタンに中川さんが書いた言葉は、詳細は忘れてしまったが、作兵衛さんと台湾をつなぐ言葉だったと記憶している。
ほんの小さな記憶の断片が集まって、それほど深かったわけでもない人との付き合いが、消しがたい存在となって残る事がある。ざわつきが止まらない私の中で、「安らかに」という言葉は、なかなか出てこない。中川さんの書いた記事を、改めてまとめて読んでみたいと思った。