2016年8月27日土曜日

豊田泰光さんのこと・続 ~東京・大阪が遠かった時代~

追悼の思いを込めて、豊田さんのお話の続きです。(豊田さんのお話は、びっくりと笑いの連続で延々と続きます。ご紹介できるのはほんの一部です。)

「西鉄の歴史のなかで、何がって言ったら、全部、僕の話は稲尾になるんですよ」という豊田さんにとって、ライオンズとは煎じ詰めると稲尾和久に尽きる。

そんな豊田さんと稲尾投手との出会いは、いろいろな本にも出てきますが、何度聞いてもびっくりしてしまいます。たまたま合宿所で留守番役だった豊田さんのところに、ガリガリに痩せて風呂敷一つ(!)の稲尾青年が訪ねて来ます。そのときの問答。

「布団は送ったのかっていったら、布団がいるんですかって、うち貧乏で布団ないんですよって」
私もびっくりして聞き直します。

〇有馬(以下A) そのころライオンズは、自前で布団もってこないといけないんですか?
〇豊田(以下T) そうですよ。
〇A 合宿所も?
〇T ひどいもんですよね。だから、朝ご飯でもね、卵1個はあるんですよ。焼いてもらうとか、生とか。で、目玉っていうと、もう1個買わにゃいかんのですよ。自分で買うんですよ(笑)。そういう世界ですから。西鉄ってのは、せこいとこだなと思ってですね。

〇A 他球団と比較してどうだったんですか、そのへんは。
〇T いや、そういう私生活まではわかりませんもんね。だから何年かたってからですよね。わかりだしたのは。
食堂車がついたころ、まあ、かもめが昭和28年の5月10日に通るんですよね。そのときに食堂車がついてましたもんね。で、しばらくたったときに、三原さんがビール飲んでいいっていうんですよ。未成年はだめですよ。で、なんでかなあって不思議で、僕らはわかんなかったですけどもね。結局、その博多・大阪間10時間ですからね。かもめでね。

〇A そうですね、そんなもんですね。
〇T これね、起きてたら疲れちゃうんですよ。だから、ビール飲んだら眠くなる。これがあの人の狙いでした、ええ。まあ、たいがいベテランが飲んでますけどね。でも、ピッチャーなんかは、まあ一杯くらい飲んだら真っ赤になっちゃうくらいの奴は、寝てますもんね、ほんとに。
これはね、僕すごく後でわかったことなんですが、まあ31年に優勝して、巨人とやるでしょう。で、東京で1勝1敗になって、博多に列車移動なんですよ、あの頃。列車移動をやるのに先に西鉄が食堂車でメシ食うんですよ。そんときに、ビールが出てるじゃないですか。巨人がそのあと来たらビール飲んじゃいけないわけですから、ものすごく羨ましがられたですよ(笑)。僕、あれでシリーズ勝てたんじゃないかと思ったりしてね。妬みで勝ったなあという感じですよ。でもやっぱりそういうのってね、あの、僕らは吹くじゃないですか。うちのおやじはものわかりがよくてよー、とか何とかいっちゃうじゃないですか。するとね、そうだよなあってなっちゃうんですよね。あの、西鉄の選手ってのは、そういうことをいう奴が、上手い奴がいっぱいいたんですよ。


西鉄ライオンズの飲酒伝説というのがありました。実際には、二日酔いでホームランなんてあり得ないと豊田さんは強く否定されましたが、もしかしたら伝説のネタ元はこれかも、というので話してくれたのが上のエピソード。


博多・大阪間が10時間かかった頃。小学校一年生の時、鹿児島を朝発って、二度目の夜に東京に着いたという引っ越しを経験している私には、リアルに迫ってきます。
移動の話が続きます。


〇A 移動の話ですけど、移動のときは列車は何等なんですか。
〇T ええと、ランクによるんですよね。
〇A 選手の?
〇T 選手の。で、グリーンっていうか二等車だったですけどね、二等車乗る人ってのは、まあ大下さん*とか川崎さん**とか三原さん(監督)とか、まあそこいらぐらいですかね、ええ。あとはまあ三等車で、ええ。で、やっぱり31年ぐらいから30年くらいからかなあ、グリーンに僕ら乗せてもらったですよ。それはあの、それこそ二等車に乗せてもらわなかったら、とてもじゃないけど体もたないですよ。
〇A だったと思うんですよね。
〇T ええ。だからもうみんな体操ばっかりしてましたよ(笑)。体操してたしね、網棚のうえに横になって寝たいな、とかね、そんなこという人もいたしね。でもね、1年目なんかはそういうきつい旅行しているときに、席とってると先輩が取り上げるんですよね、どけっていって。補欠でもそういうこというんですよ。そんとき僕らに、バッグを並べてね、豊田ここに寝ろとかね、仲間がいってくれるんですよ。だから、僕らが入ってからあのチームはよくなったですけどね。まあ、戦後っていいますかね。戦中は小学生だったからね、やっぱりその、国民学校からまあ新制中学に入って、それなりの世の中の明るさみたいなものが大事だっていうのをもった子が、はじめてプロ野球に入ってきたと思うんですよ。
〇A ああ、なるほどね。そういう意味がある。
〇T ええ。あると思うんですね。そこへもってきて、アメリカ人と一緒に野球やるとは思わなかったし、だからいっぺんで、なんかそういう古くさいこととか固いこととか、ポンと捨てたっていうか

若い方には三等車といっても、「?」でしょう。二人がけが向かい合わせになっている。背中合わせに後ろの人が座っているから、リクライニングなんかするわけがない。固定の硬い椅子です。そんな席で、一軍選手が大阪から10時間の移動!
でも、そんなエピソードが、ただのエピソードで終わらないのが豊田さん。

席に座った若手に「どけ」という先輩。上下関係という戦前からの意識丸出しの人間がいる一方で、バッグを並べて、ここに寝ろといってくれる仲間。
戦後になって、「それなりの世の中の明るさみたいなものが大事だっていうのをもった子が、はじめてプロ野球に入ってきた」という、ここがこの話のキモでしょう。

「面白く生きないと辛い」時代という前回の発言と合わせて、「職業野球」という戦前的な存在から、国民的な娯楽スポーツとしての「プロ野球」に転換していく戦後社会の変わり目を、見事に表現しきった発言だと思います。

個人的には、豊田さんはとても知的な人だったと思います。知と情を兼ね備えた人、ファンとともにあった人、そしてもちろん何よりも野球を愛した人でした。偉大な野球人を偲んで、合掌したいと思います。

*大下弘 川上哲治と並んで戦後初期のプロ野球を代表する強打者。ライオンズの四番。
**川崎徳次 草創期ライオンズのエース。1957年に引退

2016年8月19日金曜日

豊田泰光さんのこと ~偉大な野球人の言葉に耳を傾けよう~

西鉄ライオンズの名遊撃手として、また引退後は歯に衣着せぬ明快な語り口の評論家として、多くの人に強い印象を残した豊田泰光さんが、今月14日に亡くなりました。豊田さんは、福岡市博物館にとっても大切な方でした。本当に残念です。


偉大な野球人でした。私たちはこの人によって語られた言葉に、もっと耳を傾けるべきだと思います。
私ども福岡市博物館も、二度にわたってお話をうかがっています。私が重要だと考えるのは、豊田さんのお話が、抱腹絶倒の笑い話を通して、戦後プロ野球の歴史は庶民が生きた戦後日本社会の歴史そのものであることを、見事に物語っているからです。

豊田さんの西鉄ライオンズ入団は1953(昭和28)年、鉄腕投手・稲尾和久を擁して読売ジャイアンツを相手に日本シリーズ三連覇を果たしたのは1956年~1958年です。
1958年は東京タワーが建った年、戦後日本はテレビの時代の入り口にさしかかっていました。しかし庶民の生活は、ようやく敗戦後の混乱から立ち直って、落ち着きを見せ始めた頃、まだ高度成長の果実など行き渡っていない時代でした。

でも、そんな説明は抽象論に過ぎないかもしれません。豊田さんの語りを通すと、こんな感じになります。


有馬(以下A) 豊田さんがこれ*によると最初月給3万円っていうことでしょう。
豊田(以下T) 3万円でしたね、はい。
A それで感じがなかなかつかめないんだけども、どんな感じですかね、当時3万、まあ高卒だからたいへんなもんでしょうけど。
 ああ、たいへんなもんですよ。
はい、あのー、昭和28年はですね、8千円ですね、ええ、学卒8千円。高卒が35百円から4千円ぐらいの間ですから、食ってけないですよね。親の仕送りとかなんかないとね、やってけないですよね。だから西鉄でいちばん安いやつは1万円でしたね、1万円。
A 月給が?
T ええ、でも道具買わないかんから。やっていけないですよね。だから相当な苦しさでしたね。


A 感覚的に水戸商業からプロ野球に行くのは、まあ例えばプロの選手になったらどういう生活をするんだろうとか、そういうレベルでいうと、入る前にどういうふうに感じてらっしゃったんですか。
T まったく知識ないです。
A なし?
T ええ、ないです。大学行くつもりでいましたから。そしたら甲子園から帰って、父親見たら、こう揺れてますから、ああおかしいなあと思ってですね、で、もうこれは就職しなきゃいかんかなと思って、最初はですね。
日立市に住んでましたから、日立製作所と日鉱日立が野球部ありますから、これどっちかに就職して、まあ就職はできると思ってますから、野球でね、できると思ったですから、それでまあ親孝行でもせにゃいかんかなあっていうふうに思ってたときに、スカウトが来たんですよ、学校の校長室にね。
で、校長はとにかくプロに出したくてしょうがない人だったんですよ。ええ。もうとにかくね、甲子園に行ったときはまた喜んでね。それでとにかくスカウトの、あの宇高さんに、お宅はプロ一人もいませんねって言われたら、いや今年2人入るつもりですからって自分で言ったんですよ(笑)。行けと言わんばっかりだもん、だからまあ


A まあそうすると、プロの選手になったらこのくらいのいい生活はできるだろうとか、そういうイメージはないんですか。
T ないです、ないです、ないです。合宿に入ったから()
A それはそうだけど。
T ご飯は何杯食べてもいいっていうだけですから。おかずがないんですから。
A その話もすごいですよね。
T ええ、だからあれですよね、ご飯のおかずってのは、一膳食べたらおかずなくなっちゃうんですから。で二膳めから食べるのは、あの高菜の油炒めあるじゃないですか、あれが丼一杯あるんですよ。あれがご馳走ですから、二杯めから。あれは今でも好きですよ()

A だから例えばその、それこそ体が資本のプロスポーツの選手でっていう、なんかそういう栄養学的な発想とかね、皆無ですか、それは。
T 皆無ですね。ですから興味は持ちますよね。何で精つけたらいいかとかね。
だけど三原**さんってね、すごいと思うのは、遠征にいったときに生魚食うなっていうんですよ。氷の冷蔵庫の時代ですから。合宿でももう魚、生魚が一回も出たことがない。
三原さんはね、生魚食わせなかったのは正解なんですよ。だから生魚をね、平気で食ったのは稲尾だけですよ。鮮度を知ってますからね、あれは。
A ええ、慣れてますからね***、それは。
T ええ、なんかこうやって、大丈夫、大丈夫、大丈夫って食べるんですよ、自分で。僕はもうおっかなかったから食べないとね、食べないんですか、豊田さん、じゃあ代えましょうっていってね、おしんことね、刺身とっかえるんですよ。だからあいつのエネルギーだいぶ僕のですよ()


T 面白い時代ですよ。そんなのは笑い話なんですから。
A そうですね。でもまあ、これも歴史の一コマで、やっぱりいろんな形でですね、ちゃんと残しておくべきだろうなあって思うんですね。
T あーそうですね、そうですね。あのころはね、面白く生きないと辛いんですよね。だからもう、だいたいみんな面白い話にいっちゃうんですよ。作り話でもなんでもいいから面白くしちゃうんですよね。だからそういうのって、僕もけっこう好きだったですよね。騙されてきいてましたけどね。
A ああ、なるほどね。面白くしないと辛いってのは、なるほどね。そうですよね。
T ええ、辛いですよ。ほんとうに辛いですよ。腹へってるかなんて聞けないですからね、いつもへってるから。だからおごってくれるのってなっちゃうからね()。聞かないですもん、そういうことは。


面白く生きないと辛い時代。博多っ子を熱狂させた野武士野球の時代背景と言ってしまうと、訳知りに過ぎるかもしれません。豊田さんのお話、もう少し続けます。

*『風雲録 西鉄ライオンズの栄光と終末』(1985年)
**三原脩。195159年に、西鉄ライオンズの監督をつとめ、リーグ優勝4回、うち3回は日本シリーズ優勝に導く。1960年、セ・リーグの大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)監督に転じると、万年最下位のチームをリーグ優勝・日本一に導き、三原魔術と称された。
***稲尾投手は別府市出身で父親は漁師。子供の頃から漁の手伝いをしていた。


豊田さん晩年の語り口にもう一度接してみたいと思われる方は、館内の常設展示室でインタビュー画像を公開しています。ぜひ当館へ足をお運びください。